垂井の偉人(いじん)「竹中半兵衛(たけなかはんべえ)」

2017年3月9日

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わたしたちの町、垂井町の偉人(いじん)として有名な

「竹中半兵衛(たけなかはんべえ)」って一体どんな人なの?

本名は、竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)

生まれた年は天文13年(1544年)

亡くなった年は天正7年(1579年)

半兵衛が生きた戦国時代(せんごくじだい)は、多くの武将(ぶしょう)が

自分の領地(りょうち・自分がおさめている土地)を広げるため、日々たたかいが行われていました。

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半兵衛は、現在(げんざい)の大野町で生まれたと言われています。

そのあとは、垂井町の岩手に住んでいました。

小さいころから勉強が好きで、とくにたたかい方の研究(けんきゅう)をしました。

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半兵衛は今の岐阜市にあった稲葉山城(いなばやまじょう・今の岐阜城)のとのさまに仕えていました。

このとのさまは、とてもわがままで美濃の国の人たちがめいわくにおもっていました。

そこで半兵衛は、少数の家来(けらい)といっしょにこの城を奪って(うばって)しまいました。

となりの尾張の国(おわりのくに・今の愛知県)の強い武将である織田信長(おだのぶなが)は、味方(みかた)になるよう半兵衛をさそいました。

しかし半兵衛は、主人に心を入れ替えてもらうためにしたのであると言って、城を出て行き、元の主人に返しました。

それ後、半兵衛は引退(いんたい)して垂井町の栗原山(くりはらやま)で静かにくらしていました。

とても優秀(ゆうしゅう)な半兵衛のことを、自分の家来にしたいと考えた信長は、家来の豊臣秀吉(とよとみひでよし)を半兵衛のもとに行かせました。

最初は秀吉を相手にしなかった半兵衛でしたが、何度もたのんできた秀吉に感動(かんどう)し、信長ではなく、秀吉の家来にならなりましょうと言い、味方になりました。

半兵衛は、秀吉の良い相談相手(そうだんあいて)となり、多くのたたかいで作戦(さくせん)を立て、役に立ちました。

竹中氏陣屋跡銅像(アップ).jpg

 

天正5年(1577年)、秀吉が中国地方(今の山口県とか広島県とか)に力を持つ武将・毛利氏(もうりし)と戦うことになったので、半兵衛も一緒にむかいました。

中国地方へ向かう途中の播磨(はりま)の国(今の兵庫県の南の方)には、黒田官兵衛(くろだかんべえ)というとてもかしこい武将がいました。

半兵衛は官兵衛を気に入り、友達になりました。

天正6年(1578年)信長の家来の一人が信長を裏切(うらぎ)りました。

官兵衛はその裏切った人に、もう一度味方にさそうために敵の城に向かいますが、そこでつかまえられてしまいます。

官兵衛もその人と一緒に裏切ったと思った信長は、官兵衛の息子の松寿丸(しょうじゅまる)を殺そうとしますが、半兵衛は官兵衛を信じ、人に知られないようにそっと自分の城がある岩手にかくしました。

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その後、官兵衛は助け出されて裏切っていないことが分かったので、松寿丸もゆるされました。

松寿丸がかくれていた場所は、今の岩手の五明稲荷社(ごみょういなりしゃ)です。

松寿丸がかくれていた時に植えたと言われるイチョウの木が残されています。

しかし、もともと体が丈夫ではなかった半兵衛は、官兵衛が助け出される前に、いくさの中、病気のために亡くなりました。

36歳であったといわれています。

 

かしこくて、人々のことを考えることができて、友情を大切にした半兵衛は、垂井の誇り(ほこり)としていまも多くの人々に尊敬(そんけい)され、愛されています。

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